〜皆無〜

僕の体には盲腸が無い。
しかし、俗に言う「虫垂炎」になったことは無い。
これは、紛れもない実話だ。
18年前、いきなり僕は腹が痛くなった。
さらに40℃の高熱が出て、一晩中、吐き気に襲われた。
当然、その日は眠れなかった。
次の日、朝一番で病院に行った。
意識が朦朧としながらも、必死にクルマの運転をした。
病院の受け付けで症状を訴えると、すぐに特別診察室に案内された。
僕は痛みと苦しみに耐えながら、ゆっくりベッドに横になった。
担当の若い医師は、僕の腹を何か所かさすったあと、こう言った。
「あなたは盲腸です。すぐに手術をします。」
その後、年配の看護師に何かの液体を注射された。
ちょっとだけ、苦痛が楽になった気がした。
緊急事態のため、瞬く間に、僕の手術の準備が進められる。
いつの間にか、手首には点滴の針が差し込まれていた。
「松浦さん、全身麻酔のクスリを入れますね、今から眠くなります。」
僕は意識を失った。
ひどく、長い夢を見た。
無限に続く螺旋階段を、ひらすらに下る夢を見た。
あとで聞いた話だが、僕は手術が終わってからもなかなか麻酔が覚めず、医療スタッフの方々は非常に心配していたそうだ。
そして、僕は、目が覚めた。
麻酔が効いているせいなのか、全く痛みはない。
だんだんと意識がはっきりとしてきた。
下腹部を切られた実感が、だんだんと湧いてくる。
術中に付き添ってくれた、母がベッドの側にいた。
そして、母から驚くべき事実を知らされた。
「あんたの盲腸、綺麗だったらしいよ。」
「全く炎症も起きていなかったらしいよ。」
「だけど、いちおう摘出したんだって。」
「お医者さん、術後の説明の時に、私と目を合わせなかった。」
「ずっと、しどろもどろだったんだよね。」
あれから18年が経った。
今も、もちろん、僕の体には盲腸が無い。
今も、もちろん、その医師に対する信頼も無い。
